普化尺八の興隆

  • 尺八の歴史
  • 平成28年 4月4日 (月) に投稿

 関ヶ原の合戦後、浪人武士が急速に増加し、果ては虚無僧と化するものが多く、彼等は結束して普化宗の本山を設けるため、かって薦(こも)僧共の宿泊所であった京都白河の茅屋を明暗寺と名付けて、これを普化宗の総本山に定めるべく幕府に届け出たが、幕府は京都に普化宗の本山を置くよりも関東に本山を置いた方が政策上有利なので、下総の一月寺と武蔵の鈴法寺を本山と定めました。
 虚無僧の素性は元来、浪人武士の上がりで結束が固く、一般庶民には普化尺八の使用を禁じていました。
 幕府は、彼等を諸大名の動静探索に利用したのはこの頃からであり、関東の総本山には政治手腕のある住職と尺八指南役を配置していました。